2012年9月17日月曜日

がっかりスポット?銀閣寺


銀閣寺に来て「わび、さび」を感じた、それほんと?

銀閣寺の紅葉
銀閣寺の紅葉 / norio.nakayama



ふわっとして、尚且つすーっとした秋の空気にだんだんと包まれてきた。

最近、伊右衛門 焙じ茶のラベルデザインが変わってることに気づいた。

そんな伊右衛門を見ると、デザインは大切だなあと思わずにいられない。

僕はペットボトルのお茶はいつも伊右衛門を買います。

お茶の違いなんかわからないけど、デザインが好きでそれにする。

味覚の満足の他に、情緒的な満足が得られる(気がする)。

だから僕は伊右衛門を買います。



さて、



最近、無印良品などで有名なデザイナー、原研哉さんの著書『日本のデザイン』を読んでいます。

薄い新書ですが、ページをめくる度に出会う発見と興奮、そして遅読のためにまだ半分ほどしか読めていません。

そんな中で個人的に小さな、しかし爽快な発見がありました。


「シンプルとエンプティ」という章での話。

原さんはここで、慈照寺東求堂同仁斎(銀閣寺にある書院造りの部屋)を取り上げ、それを「シンプル」とは本質的に異なる「エンプティ」と称している。


”「何もない」ということが意識化され、意図されている。”

”空っぽの器であることによって、人の関心を引き込んでしまう求心力として「エンプティネス」は体得され、運用されていたのだ。”
                            (引用:『日本のデザイン』著・原研哉 p.62)


それから、足利義政による東山文化について、とても綺麗な文章で書かれていました。


この辺りのことを読んで、「なるほどっ」と思いました。

何が?




僕は、銀閣寺には2~3回ほど行ったことがある。

銀閣寺といえば、よく


「わび、さびがあって素晴らしい」 とか、

「金閣寺より銀閣寺だよね~」 とか、


銀閣寺の「ちょっと違う素晴らしさ」みたいな評判を聞いていました。

なので、初めて訪れる時にはそれなりに期待していました。

しかし、行ってみると


「……」

「……」

「……ゎ、わびさびだね(苦笑)」


なんというか、必死に、というか無理矢理、拝観料の対価を認めようとした。

結局、期待していたものは無く、はっきり言ってがっかりしました(銀閣寺ファンの方すみません)。

金閣寺の方がよっぽど素晴らしかったです。

何故か?




話を戻します。

銀閣寺は「エンプティ」を美しさとし、東山文化の中心として、芸術オタクの足利義政が建立したものです。

>「エンプティ」を美しさとし、
>「エンプティ」を美しさとし、
>「エンプティ」を美しさとし、

ここ、大切なので繰り返しました。

そう、銀閣寺は「エンプティ」「何もないこと」こそが美しさであり、それが所謂「わび、さび」につながります。


僕が「なるほどっ」と思ったこと、それは

「エンプティ」を美しさとする銀閣寺に、騒々しい観光客がうじゃうじゃと存在すると、そこに「エンプティ」は存在しなくなり、美しさを失う。

ということ。

銀閣寺にがっかりした理由がこれでした。

写真や映像で紹介される「美しい」銀閣寺には、観光客って写ってませんよね。

銀閣寺に、大勢の観光客は似合わない、馴染まない。

僕も観光客の一人なので、あまり文句も言えませんが^^;



対照的に、金閣寺はそのきらびやかな豪華さが「美しさ」だ。

そこにギャラリーがいることで、目立ちたがりの金閣寺の美しさはなお際立つんだと思います。

つまり、うじゃうじゃと観光客がいても、それが似合う、馴染む。

だから金閣寺は素晴らしかった。


現代の、うじゃうじゃと観光客が訪れるという条件の「観光スポット」としては、

銀閣寺は美しさを失い、金閣寺は美しさを維持できる。



「美しさ」のコンセプトにおいては、僕は金閣寺よりも、銀閣寺の方が好きです。

一度、人がいない銀閣寺を訪れてみたいものだ。

足利義政が意図した「美しさ」を見せる銀閣寺というのは、それはもう素晴らしいでしょうね。

京都を観光される方は、銀閣寺には朝の内に廻っておいた方がいいかもしれませんね。

銀閣寺に限った話ではないですがw


ちゃんちゃん










2012年9月15日土曜日

怒り新党(9月12日)のマツコ・デラックス


マツコの部屋 アンタがいるから素直に笑えないのよ 編 [DVD]



マツコ&有吉の怒り新党

いつも楽しく拝見しております。ええ。

とくに先日、9月12日の回は印象深かったです。


気になった「怒りメール」

「女性が強くなった・女性の時代」という一般女性に腹が立つ (40代・男性)

ざっくり一行で言うとこういうもの


これに対して、有吉さん100%賛成、マツコさん100%反対w

このトークでの有吉さんとマツコさんの立場が、なんだか日本のジェンダー観を象徴しているというかなんというか。


(以下、部分的にコメントを引用)


マツコ「でも『女の時代だ』って言い出したのは男だからね」



有吉「俺らはそうじゃない、庶民は」


マツコ「その辺の会社のさあ、ハゲ部長とかだってさあ、そういう目で女の子を見てるのよ」

    「で、なんかあって、ちょっと勝気な女の子が出てきて、女の主張だみたいなことを言ったら」

    「『女のクセに!』って言うのよ」

    「それがあることを前提にしないと、かわいそう、女が」

マツコ「私はこういう話題になったら、絶っ対に折れないわよ!」



有吉「こりゃあ、もう……女の時代だ(苦笑)」

「いつも男は茶化して逃げる」(テロップ)



テレビ番組の引用をブログに書くというのは、著作権がらみのグレーゾーンでちょっと怖い^^;

(奇跡的にこのブログをご覧になって興味をもった方は、誤解を招かないためにもちゃんと番組録画を見て欲しいですw)



● メディアは男の頭で出来ている、、、俺らは?

さて、

確かに、雑誌やTVなどマスコミで決定権をもっているのは、男尊女卑の思想が強い所謂「ノンケのおっさん」でしょうね。

そんなおっさんたちが、日本中のマスにコミュニケーションしているんだから怖いことだわ。

そんなコミュニケーションが当たり前の環境の中にいる僕たちも、無意識にも男尊女卑の考えになっていてもおかしくはない。

有吉さんが「俺らはそうじゃない」って言ったけど、どうでしょうね。

自分がそうだと気付いてない、またはそうだと思いたくない人は多いんじゃないかな。

現に僕もまだまだ男尊女卑の”シミ”は残っていると思う。

例えば、「事務職=女性」みたいなステレオタイプというかイメージみたいなものはまだ拭いきれません。

「男はこう」「女はこう」っていう昔ながらの性役割の考えは出来るだけ捨てたいんですけどね。



● バラエティ番組に出演するLGBT(L=レズ、G=ゲイ、B=バイセクシャル、T=トランスジェンダー)

さてさて、

マツコさんがこのようにガチの話を、バラエティ番組でするのはとても大切なことだと思います。

ジェンダーとかセクシャルマイノリティの話って、あまりこちらから能動的に聞こうとは思わない。

だから、万人が視聴するバラエティ番組にマツコさんたちが出て、ジェンダーとかセクシャルマイノリティについて主張するのはいいことですよね。


僕もそう思ってました。


しかし、こういう見方もあるようです。

「ゲイやオカマは、バラエティ番組のキャラクターとして消費されている」

ゲイの知り合いが多い友人から又聞きしたことなので定かではありませんが、確かになあと思う。

KABAちゃんとか、楽しんごとか、面白いですもんね。

そしてそれを面白がるように番組も構成されている。


今回の怒り新党でも、有吉さんが茶化しますw


これは、もしかしたら有吉さん本人の意志ではなく、有吉さんが「バラエティ番組」という空気を読んで、わざと茶化してるのかもと感じました(わかんないけど)。

日頃、別のバラエティ番組での有吉さんを見てたら、まあ、あり得なくはないなと。

ああいう番組でガチ討論の末、笑いがなかったらちょっと不安になりますよね。

でも、マツコさんが真剣に語っているところに追い風となるBGMを流したり、大事な場面にちゃんとテロップを入れてるあたり、怒り新党は健全なのかな?

ちゃんとキャラクターとして消費するだけじゃなく、マツコさんの主張をボカさなかったのは、なんだか安心しました。


しかし、ジェンダーよりも差別意識が強いであろうセクシャルマイノリティに対してはどうですかねぇ。

彼ら彼女らがテレビ番組を盛り上げる姿は毎日のように見るけど

彼ら彼女らがテレビ番組で悲痛な叫びを上げているのはあまり、ほとんど見ません。

そう考えると

「ゲイやオカマは、バラエティ番組のキャラクターとして消費されている」のかもしれません。


いやあ、しかし、今回の怒り新党は神回だったと個人的に思います!

こうやって真剣に性差別について考える機会が身近にあるといいですな。

なんか僕がフェミニストみたいになってますが、そういう自覚はあまりありません。



僕がこんな風に、ジェンダーやセクシャルマイノリティについて考えだしたのは、本当につい最近です。

身近にゲイの人がいたからです。

ちなみに僕はヘテロ(ノンケ)です。

よくゲイコミュニティのことを「あっちの世界、そっちの世界」と言いますが、

住んでる世界は我々と同じです。

よく「男だから~」「女だから~」と言いますが、

体つきなどの「性差」はあっても、「~すべき」という「性役割」はあまり無いのかもしれない。


まあ、難しい問題です。

もっと勉強していきます。


訪問者の少ない当ブログですが、こういうテーマにはあえて見てる人がいる風な口調にしてみました。

もっと訪問者増えねぇかな(ヽ´ω`)

増やす努力はしませんが!





続・世迷いごと












2012年9月13日木曜日

道路(歩道)の車道側は、男が歩かなくてはいけないのか?



an・an (アン・アン) 2012年 2/15号 [雑誌]


9月、ちょうどよい気温です。

とくに夕方から夜にかけて、私たちを包みこむ空気は、やわらかくてとても心地よいですね。

日本の四季は素晴らしい!


さて

最近、なにかとジェンダー論に関することが僕の中で話題です。

美容室に行けば、「taco894くんは中性的だよね」とか、

「女性以外の応募はお断り」の求人に出くわしたり、

マツコ・デラックスが深夜番組でジェンダーについて熱く語ってたり(これについては印象的だったのでまた別記事で書きたいな)

女性だから、男性だから、みたいなワードをほいほいと僕のアンテナが拾っていく今日この頃です。

といっても、1年以上前から(セクシャル)マイノリティに関係する大学の先生たちと知り合っていたので、そのようなことについて考える機会はあったのですが。


さてさて

そこでひとつ思い出したことがあり、取り上げたいことがあります。


「道路(歩道)の車道側は、男が歩かなくてはいけないのか?


以前、このことで母と口論したり(苦笑)

友達(女性)の意見を聞いて、ふんふんと頷いたりしました。

僕個人の暫定的な意見を言うと、

「少なくとも僕は車道側を歩く、わざとらしくない程度に」

という、おぼろげで不確定な感じです^^;

理由は

・ 男性のほうが、衝撃からのダメージに強い(ハズ……今でもよくわからん)。
・ かっこつけたいというエゴ
・ 「男だから車道側を歩かなきゃみっともない」という得体の知れない風潮に対する怯え

気の強い女性が隣だとそのまま安全な方を歩いたりしますが。
(そもそも、そんなに女性と歩く機会もあまりないけど)

こうしてみると、「男だから女を守らなきゃいけない」という考えに寄ってますね。


しかし、友達(女性)は言いました。

「男に車道側を歩かれるとムカツク!」

理由は

・ 何カッコつけようとしてんねん、腹立つ!
・ そもそも女扱いされると腹立つ!
・ 女性のほうが男性に比べて痛みに耐えられる身体の構造

女性にもいろんな人がいると思いますが、そこにいた2人の友達はこのように意見が一致。

どちらも女子プロレスラーや肥満体型ではなく、僕より華奢な体つきの普通の女の子ですが。

あれあれ、女性は守られて嬉しいみたいに思うんじゃないのか、と当時は少々驚きました。


しかししかし一方で、僕の母親は言いました。

「あんた、女の子と一緒ん時は、ちゃんと車道側歩いとるんな?」

「そんぐらい出来んと、あんた、ダメよ(嘲笑)」

前述の友達の件があったので

「すべての女性がそうじゃない」

と反論するも

「じゃけえ、あんたはダメなんよ(嘲笑)」

そして、息子の立場では、もう何を言っても無駄だと悟りこの話題は流しました。



これらの件から思うこと。

「男だから~すべき」

「女は~な生き物」

「男だから」、「女だから」という区別。


これは……なんじゃろな??

そもそも、男女の性別を区別する要素は何か、と、これを書き出したら長くなるので割愛。

しかし、<男・女>はおそらくアンケート用紙に○をつけるように、2つに別れるようなものではないんじゃないか。

おそらく、これは僕のイメージだが、男女というのはグラデーションのようなもので

戸籍上は男性でも、女性らしい人もいる。

戸籍上は女性でも、男性らしい人もいる。

そして、オカマやオナベもいるし、性同一性障害に悩む人もいる。

ん?性同一性障害を「障害」たらしめているものって、心身の機能不全とかでは全くなくて、この社会の環境じゃないか(と今思った)。

といった具合に、男女で身体の特徴(性差)はあれど、それに宿る心については、中心にボーダーを引いて、「こっから男ね」、「こっからは女ね」と区切れるものではないんじゃないかと思う。

身体に関しても、たまたま男女がそれぞれの生殖機能をもっているだけであって

だから「女性は子供を産まなきゃいけない」とかっていう「性役割」を押し付けられる必要もない。

他にも…と言いたいことが山ほどあるが、掘ったらキリがないので、最初のテーマに戻ります。


ええと、「道路(歩道)の車道側は、男が歩かなくてはいけないのか?」

男だから歩く必要はないし、歩かない男はダメじゃないし、女だから守られる必要もない。

男だから、女だから、というものを取っ払って、ゼロベースからの個人の自由にどうぞということで。

僕の「かっこつけいたいというエゴ」というのも、人によっては迷惑なものなんだろうな。

でもやっぱり、サッと車道側に(さりげなく)移って、女の子に「ありがとう^^」と言われるのは気分いいです(「ありがとう」と言われるってことは気を遣われてるんだろうけど)。

この辺は、僕という個体の中の「男らしさの部分」みたいなものが反応してるんだろうか。

うむうむ、本当に難しいテーマだ。

僕もジェンダーについてはまだまだ関心をもったばかりなので、わからんことばかりです。

しかし、今のように社会的劣位やマイノリティについて考えたり、

身の回りの事象について、あたりまえを疑い、考えないことを疑う。

そうして一歩一歩、「成熟した市民」になっていきたいものです。


お姫様とジェンダー―アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門 (ちくま新書)









2012年9月1日土曜日

美容室はただ髪を切るだけの場所か?


hair cut sign
hair cut sign / gurdonark


先日、けっこう髪を切った。

今までで初めてなくらいショートにした(サッカーコートの芝くらい?)。

案外、ショートもいけるもんやなあと、


まあ、そんなことはいいとして

今回、髪を切る際に、「あれ?」と思うことがあった。

美容室に電話して予約をした後に、鏡を見て思った。

「あれ、まだそんなに伸びてないじゃん……」

鏡に写る自分の髪は、就職面接にも余裕でいけるくらいの長さだった。


普通は髪が伸びて(というか増えて)、鬱陶しいなそろそろ切ろうか→切る、という流れだろう。

しかし今回は

「そろそろ(美容室に)行きたいな」と思って電話した感じがある。

つまり、美容室に対して「髪を切ること」以外の目的を求めていたのだ。


それは何か

多分、「気分の調節」みたいなもんだと思う。

最近の個人的なモヤモヤ

・ 盆明けくらいに人間関係でモヤモヤすることがあった。
・ 自分の将来に対する迷い。
・ 現状にも迷い、時間は過ぎていくこと。

などなど

何か自分の中で渦巻くものをちょっと整理するとか

スパっと気分を切り替えるとか

そういう効果があるんだと勝手に思う。

「女は失恋したら髪を切る」

という言葉もありますが、そんな感じかな?

ただ髪を切るだけだが、それには案外、大事な効能が隠れているんだと思う。


それから、美容室という非日常の空間(美容室ってすごく綺麗ですよね)

笑顔で向かえてくれるスタッフさん(安心します)

1~2ヶ月に1度という定期イベント


まるで、人間の定期メンテナンスのように感じる。

髪を切り終わり、スタイリングされて、お金を払い、笑顔で退店する。

その時に見上げる空は、いつもなんだかスーッとした透明感があるような気がします(言い過ぎか)。


人によっては「何をわかりきったことを……」という人もいるかもしれないが

それだけ僕にとっては大切な時間だということです。

美容室さん、スタッフさん、ありがとうございます\(^o^)/